田の神は、冬は山の神となり、春は里におりて田の神となって田を守り、豊作をもたらすと信じられています。「田の神」信仰は、全国的な民俗行事として古来から農村に浸透していますが、「田の神」を石に刻み(田の神石像)豊作を祈願する風習は、18世紀初めに始まる薩摩藩独特の文化です。「田の神石像」ができたころは、霧島の噴火・天災などが原因で、農家にとって大変きびしい時代でした。江戸時代からの赤字経済を立て直すため、薩摩藩では少しでも収穫を増やそうと、稲作を奨励する政策を行っていました。このような政策の中、農家は霧島の噴火をやめさせ、稲作の豊作を願うために「よりどころの像」を作るようになったといわれています。えびの市の最古の「田の神石像」は1724年(享保9年)に中島地区に作られた神官型のものです。田の神のことを、地元では「田の神さあ(タノカンサア)」と呼んでいます。えびの市内には約150体の田の神が残されています。
農家を次々に回って豊作を祈願する「回り田の神」の風習は今でも市内各所に残っています。当番の家では、田の神像に化粧をし、ごちそうを作り大事に床の間にまつります。田の神は、春・秋交代で次の座元へ回っていきます。昔、「平日、村で打ち寄り酒を飲む事」が禁止されていた時代、この日だけはお酒を飲んでも良かったそうです。
昔は、田の神を盗む(オットイ)という風習がありました。豊作の続く地方の田の神像を置くと、米が良くとれるようになるといわれたからです。また、田を新しく開田したところには田の神がないので、よその田の神を盗んだそうです。実際には、借りてくるのですが、盗まれたところは、盗んだところが返しに来るのを待っていました。盗んだ田の神像は3年以上置くと不作になるので、盗んだ集落では3年経ったらお礼として籾や焼酎、ニワトリなどを持って正装して楽器を鳴らしながら、にぎやかに田の神像を送っていきます。盗まれた村では、サカムケ(坂迎、酒迎)の準備をして待ち、合同で盛大な酒盛りをしたそうです。
米どころであるえびの市では、実り豊かな地域の文化財である「田の神さあ」をシンボルとする、「田の神さあの里づくり」運動に昭和61年から取り組んでいます。この運動は、宮崎県が提唱する「新ひむかづくり運動」の一環として取り組みが始まったものです。